私たちは、日々の移動に用いる自転車も、メモを取るノートやボールペンも、自分一人で作ることはできない。パソコンやスマートフォンともなれば、なおさらだ。
しかし、これは高度な分業化が咲かせた花であり、それに対して不満を抱かずに日常を過ごせるということは、科学技術の「勝利」とさえ言えるだろう。つまり、人生のあらゆる側面を自前で担う必要はなく、社会に貢献さえしていれば(ここも議論の余地はあるが)、その対価として、誰かが作り出したサービスやモノを享受して生活できる。金銭という抽象化された「価値」を介してこのシステムが維持されていることは、驚嘆すべきことである。
だが、そのシステムに属しながらも、「可能な限り身の回りのことを自分で行いたい」と願うのは、ごく自然な欲求である。時に、システムを維持する一つの歯車として動き続けることは、「身体」を失うことにも繋がる。自らが食する農作物を育て、自らの用に足る道具を作る。そうして人間の形を取り戻すことは、極めて自然な営みであり、私はここでそれを実践したいと考えている。
ブログ、すなわち自己の思考や経験を共有する場を自前で設けることは、決して容易ではない。もし半導体が米のように地から生え、高度な回路を棚を組むように構築できるのであれば、農作物や道具と並べて語れただろう。しかし、現実はそうではない。
それでも、可能な限り自分の「身体」を持ちたい。この電脳空間においても、十全に手足を動かせるようにしたい。そう願うのは、至極自然なことだと思う。
既存のブログサービスやSNSに身を置くことは、この目的の達成には至らない。アルゴリズムや外部の力によって容易に空間から排除されうる状況では、自由闊達とは言い難いからだ。 自分のものをしまっておく。自己表現を行う。当たり前に思えることが、ここでは当たり前ではない。私たちの「身体」は容易に巨大企業によって拘束され、誘導される。その影響力の射程に照らせば、これは国家権力に等しい。しかし決定的に異なるのは、ここでの権力が、極めて曖昧な根拠に基づいている点だ。国民の意思や権利の代行ではなく、株主の意向に沿い、利益追求を第一原理とするマシーンが、私の手足を縛っているのである。
だからこそ私は、自ら組み上げたPCでこのブログをホストし、公開する。
少しでも、自分の手足を取り戻すために。